SORAGOTO

いつ、わたしが終わってもいいように。頭と心を言葉にしておく。

はじめに

うたうことが好きで、以前は折にふれてカラオケへ行った。そうすると次の曲が始まるまでの合間や、ドリンクを注ぎに個室の外へ出たときなどに、ほかの部屋から見知らぬ人々の楽しげな歌声が聞こえてくる。

わたしは、すっかりいろんな味がするようになってしまったプラスチックカップにアイスコーヒーを注ぎながらそれを聞くのが好きだ。知っている曲だと触発されて部屋へ戻ってから歌うこともあるし、知らない曲でも、賑やかな様子に心はおどる。

歌声はどれもわたしへ向けられたものではない。けれどわたしは勝手に受け取り、勝手にリズムを刻んで歌う。まじわることはないけれど、無関係の世界でもない。案外、心地よい距離感だと思う。

 

ここ数年、書いたものを公開することについて、ずっと引っかかりを覚えている。特に、物語というかたちを持たない、なけなしの娯楽性もない、わたしが感じたり考えたりしただけの言葉や文章の位置付けがわからない。わからないのでそういったことは公開せず、けれども意識の端のほうで答えを探し続けていた。

 

いま、こうやってなにかしらの文章を書き連ねているけれど、答えを見つけたというわけではない。でも、カラオケでほんの5秒聞こえてくる誰かの歌声があるように、誰に何を伝えたいわけでもない、ときおりふと洩れ聞こえてくる文章があってもいいように思えてきた。

書きたいと思うものを書くことに、それ以上の理由や意味づけが必要なものだろうか。ただ、そう思う一方で、自分が心や頭で思うだけではなく「外側」へ向けて発言することの責任は忘れずにいたいと思う。

 

書くことで見つかる答えもあるかもしれないから。