SORAGOTO

いつ、わたしが終わってもいいように。頭と心を言葉にしておく。

創作とわたし

もうかれこれ、あいだに数年お休みしていたこともあるけれど、30年ほど物語を創作している。はじめはイラストと設定、オバQもどきが主人公の4コマ漫画。それが半年後にはコマ割りのある少女漫画になって、さらに数年後には地盤沈下した日本を舞台にアヤカシと人とが戦う小説を書いていた。いまも懲りずに恋愛とも任侠ともよくわからない小説を書いている。

わたしにとっての平成は創作とともにあった。そして令和もおそらくそういうことになる。

 

創作に出会う前の自分が何を見て、何を考えていたのか、いまのわたしにはもはや思い出せなくなっている。どんなものが好きだったのかすらわからない。幼かったからではない。わたしの自我は創作とともに生まれたのだと思っている。

ぼんやりとした記憶を思い返すと、わたしはわたしが見る世界をいつもわたしに取り憑いた霊のような角度から眺めていた。肉体は動いているけれど、わたしとの距離が遠いせいかどこか緩慢で、感情の反応もひどく鈍かった。

じゆう帳にはじめて書いた少女漫画は、人魚界からきた少女が人間の姿をとって、学園で起こる事件を淡々と解決していく物語で、なにをどうしたらそうなるのか、いまから考えると逆にそのほうが難しいだろうと思うくらい一切盛り上がりのないものだった。

それでもわたしはその時はじめて、自分にも肉体があること、自分も息ができることを理解した。

わたしとは関係のない、空想の中の物語であっても、それを書くことでわたしはわたしを捉えていた。つまり書かれたものは、切ればゴミになる爪なんかより、ずっとわたしなのだった。

そのことに気づいた瞬間、わたしはとんでもないものに手を出してしまったものだとゾッとした。けれどもう後戻りはできない。書くことで得られる生きている心地を知ってしまったわたしには、書かないという選択肢はあまりにも酷で、実質、書き続けるという道だけが未来へ向けてスッと伸びていた。

わたしはそのことを素直に受け入れられなかった。その道がどんな道かということではなく、道がひとつしかないと感じてしまうこと。それはとても息苦しい生き方だったからだ。

そこから逃れようと長い間もがいた。創作がないと生きていけないなんて口が裂けても言いたくなかった。服を着替えるように、創作する自分と創作しない自分を選びたかった。さらに自分の身ひとつですっくと立てることに強くあこがれた。可能性を増やすために勉強をした。就職氷河期だったので就活もたくさんした。そうしてどうにか会社員になって、これでわたしは創作という杖がなくても歩いていけるはずだと、…そう信じられたのはほんの数ヶ月のことだった。

ある日の会社からの帰り道、大学時代の部活の先輩に街角で偶然出会った。先輩は開口いちばんこう言った。

「もちちゃん、向こうが透けて見えるよ」

人は精神と肉体で構成されていると思っていたけれど、そのほかに理性の殻をかぶった「我」というものがあるのだと体感した。わたしはわたしの「我」を押し通した結果、精神から遠ざかり、その精神と繋がりの深い肉体とも疎遠になっていたらしい。

そのころのわたしは、固形物を食べることができず、20分おきにトイレへ行かねばならず、真夏なのにウールのカーディガンと毛布をかぶって仕事をしていた。なにかがおかしいと気づいていたけれど、受け入れたくはなかった。けれども、どうにかごまかして生きていきたかった「我」は、そのとき丸裸になってしまった。

先輩の言葉はわたしにとって最後通告で、空からつうとおりてきた蜘蛛の糸だった。自分でも驚くほどすんなり観念したわたしはその糸に手をかけて会社を辞め、賃金と引き換えに身軽なフリーターとなり、思考が仕事に邪魔をされない職種を選んで、ふたたび物語と歩む道を見つめることにした。

 

わたしがわたしでいるために書くという理由は、わたしを取り巻く小さな社会にとってはもちろん、わたしにとっても弱く、強固さを求めて仕事にしたいと考えたこともあった。とくに30歳前後のころは、人生の舵をどう切るか、どう切るにしてもいましかない、という気持ちがあってとても焦っていた。すでに結婚はしていたけれど様々な理由から夫婦ふたりきりで生きていくと決めていたので、知らず知らず肩身の狭さを感じていたのかもしれない。

挑戦できることにはできるかぎり挑戦した。Web小説界隈の創作企画に参加したり、長編小説を自分のサイトで定期連載したり、短編長編問わず公募に出したり、同人誌を作ってみたりもした。甲斐あって、わたしの作品を見てくださるかたは増えた。公募も賞は取れなかったけどすこしよいところまで残ったこともあった。嬉しかったし、報われた気持ちはもちろんあった。けれどそうするほどに、その道先にわたしにとってのゴールがないことが、かえってはっきりとしてしまった。

 

わたしにとって書くということの目的は、コンパスの針のように、どこまで円を大きくしようともはじめの一点に突き刺さったままわずかに動くこともなかったのだった。わたしが息をするため。それ以上でも以下でもない。

 

はじめから、わかっていたことだった。わたしにとって書くことはどこまでも自分のためなので、一切の器用さや柔軟性はもたない。…わがまま、なのだろう。だからそれを悪だと思っていた。書くならば、ひとりでも多くの人に受け入れられ、よい評価をもらい、階段が続くかぎり上を目指すべきだと考えていた。けれどそれはこの社会における正しい考えのひとつであって、わたしが書いて生きるなかで辿り着いたものではない。その正しさはわたしが求めるものでもなければ、わたしを救ってくれるものでもなかった。

どちらのほうが正しいとか、優れているとかいうことではなく、この社会には様々な考えがあり、自分のうちから生まれた感情や考えを大切にしてよいということを、ほんとうにごく最近、それこそ元号が令和へ変わろうかというころになってようやく、ぼんやりと信じられるようになってきた。

歳を重ねるにつれ、関係が途絶えたり体力が落ちたり身内が亡くなったり失うことばかりだと感じるとともに、他者に対してはもちろん自分に対しても「〜ねばならない」というような思考から自由になっていくように思う。許せるのだろう。失い続けることで、いま在る、そのことの価値に気づく。

 

思い返せば、幼少のころから友達100人できるかなワクワクという子どもではなかった。ひとり遊びばかりして、みんなに置いていかれても「まあいいか」と砂遊びをしている子どもだった。人は変わる。わたしも学生時代と比べて体形だけではなく人格も丸くなったらしい。けれどどうしても変わらない部分もある。それは努力でどうにかできることもあるかもしれないけれど、おなじだけ、どうにもできないことでもあるということだと思う。雰囲気で書いてしまえば、「性・さが」と呼ばれるところなのかもしれない。そしてその「性」に促され踏み出す一歩を運命と呼ぶのもいいかもなんて、他人事のように鼻歌でもうたって考えている。

 

書くことへの抵抗はまだいくらか残っている。抗いは苦しいが、いとしさにもなる。このまま薄れていつかなくなってしまうかもしれないなら、いましばらくはその葛藤を楽しむのもいい。これが運命なら、書くことに対するすべての選択はわたしにとって必要なものなのだから。

 

…と長々書いてしまったけれど、まあ結局、書くことが楽しいということ。そういうお話。