SORAGOTO

いつ、わたしが終わってもいいように。頭と心を言葉にしておく。

どうも、あのとき救っていただいたJK(当時)です

鶴の恩返しがわりと好きだと最近気づいた。

こう言うと、傷ついた鶴を助けるやさしさや、そのお礼に訪れる鶴の律儀さなどが理由と思われるかもしれないけれど、そうではなく、覗くなと言われながらどうしても我慢できずに覗いてしまうというその一点にそこはかとなく惹かれてしまう。

約束したのに……、悪いことだとわかってるのに……、ちょっとだけ……いやもうほんまにちょっとだけやから……、そんなことを思いながらそっと戸をひらくその背徳感及び高揚感たるや。

すきだ。

思うに、恩返しというのは勝手なものなのだろう。だから約束をやぶって覗いてしまったけれどとんでもない罰を喰らうわけでもない、ただ少しはやい別れが訪れてしまうだけに終わる。むしろダラダラ恩返しするよりも美しいとさえ感じられる。

 

わたしも恩返しをしたい先生がいた。

過去形で書いてしまうとまるで不幸があったように思われるかもしれないけれど、その方はいまも精力的にお仕事をしていらっしゃって、ときどきそれをSNSでこっそり覗いたりしている。

 

話は前世紀にさかのぼる。

まだ命知らずなJKだったころ、出会って間もない友人から本を借りた。「炎の蜃気楼」(以下ミラージュ)1巻~5巻。好きそうだから、という理由でほとんどなんの脈絡もなく返却もいつでもいいよと渡された。さいわい、わたしの鞄はいつだってすかすかだったので問題なく5冊とも持ち帰ることができた。

友人ははたしてわたしの何をどう見ていたのかわからないけれど、(あとから訊ねてもとても強い直感ということだったし、つい最近も問うてみたらそもそもわたしが貸したんだっけ?とすっかり忘れていた。謎は謎のまま……。)わたしは休みのあいだにすっかり読み終えてしまって、月曜日にまた5冊まとめて鞄に詰め込んだ。

めちゃくちゃ面白かった!貸してくれてありがとう!今日の帰りにでも続き買いに行くよ!と本を返そうとすると、手でこちらへ押しやられる。そんなに面白かったなら、どうか持っていてよ、そのほうがきっと本も喜ぶから。その代わり続き、貸してくれる?

すきだ。貸すよ。

(わたしが書くとどうも友人が悪女のようになってしまうなあ。まったく対極にいる子なのになあ。)

そんな出会いの結果、わたしはミラージュを本編完結、そして昭和編完結による「環結」まで見届けることになった。

 

それまでわたしの頭には、小説というのは読んだ人の心に正しさを示す、どこか窮屈なものだという認識があった。

教科書に載っている小説も、推薦図書として紹介されている本も、どれもこれも「子どもというものはこういった努力と友情を愛し、溌剌としているべきものである」と促してくるような作品ばかりだった。大人にも事情があるだろうからそれらに良し悪しを言いたいわけではないけれど、なぜか小説だけは当時のわたしの心に寄り添ってくれるものには出会えなかった。小説はつまらない。それがわたしの体験から導き出された答えだった。(小説を読まない一方、漫画やドラマや映画には子どものころからよく触れていた。)

ただ神話は大好きだった。救いも暴力も、好意も憎しみも、おなじ地平で語ってくれる、そのことがわたしには心地よかったのだと思う。小学校の図書室に特にお気に入りの12星座神話のシリーズがあり、それを何度も何度も繰り返し借りて読んだ。出てくるのはみんな神様なのに、教科書で読む小説の登場人物より、ずっとずっと人間くさくて近しく感じていた。

けれど小学校を卒業してすっかり縁遠くなり、中学生のときにルブランの「奇厳城」で足首を掴まれたこともあったけれど、やはり小説はどこか四角四面の融通の利かないくそ面白くないものと分類されていた。

 

ミラージュがどういった物語なのか、詳細は割愛する。おそらくBLと認識されてるだろうと思うし、それをあえて否定しようとも思わない。往々にしてこういう認識というのは的確だったりする。ただこの作品がスタートしたころにはまだBLという言葉がなかったので、現代のBLという言葉がどれほど当てはまるのかはわからない。なのでミラージュにおけるBLの部分をとても乱暴に説明すると、二人の男が400年ものあいだ輪廻転生をしながら延々マウンティングをしあう物語、となる。

作中は人と人とのわかりあえなさ、心の裡のままならなさに満ちている。

愛と憎しみは表裏一体というけれど、表と裏に棲み分けることすらできないまだら模様の感情。衝突を避け、かたちを繕った愛でおさまりのよい関係を築くことだってできたはずなのに、断じてそれを選ばず、互いの本心をどこまでも突き詰めていく(そして時には突き詰めることから逃げたり追いかけたり傷つけあったり喪失したりする)さまは、どこまでも人間の欲や業や弱さにまみれていて、醜くて、うつくしかった。

 

どこをどう切り取ってもこの物語の登場人物が置かれた状況は特殊で、わたしの日常生活とは1ミリも掠らず、少女小説レーベルなのにやがて少女はひとりも登場しなくなるような物語なのに、読み進めるうち、わたしは自分が救われていくのを感じていた。当然自分でも困惑した。もはや混乱に近かった。わけがわからない。他人の肉体を乗っ取って生き永らえる罪深さも、死んでまで魂を酷使される息苦しさも、それまでの記憶をすべて失くしたって言ってるのにやたら過去の話をしてくる部下の粘着も、どれも想像の先の先のことなのに、正しさだけでは救われない、愛しているから傷つけて憎らしいから優しくするような心と行動の不一致も、どんな感情だってあなただけのものだよと許されているような心地になった。いまならこれがいわゆるカタルシスだとわかる。けれど当時はそういった言葉も概念も知らず、よくわからないまま号泣し続けた。

わたしは中学1年生のころから小説めいたものを書いていたけれど、ミラージュに出会ってからはすっかり書き口が変わった。もっと具体的にいうと、書いてはいけないものが無くなった。どんなに心無い言葉も、自分勝手な行動も、躊躇なく書くようになった。わたしのなかで小説が血肉を得たのだった。それがとても嬉しかった。この喜びを何度も文字にしてミラージュの著者先生へ伝えようと思ったけれど、あまりにも個人的な話なので気が引けてしまった。せめて大好きだと、読んだばかりの瑞々しい気持ちをしたためても良かったと思うけれど、それが出来なかったこともまたそれなりに良い思い出のように感じている。

 

自分で書いたものを初めて公募に出したのはそれから少しあとのことになる。クレイジーにも高3の夏の締め切りにあわせて書いた気がする。出した先はミラージュを刊行しているレーベルだった。今ほどではないけれど、やがてライトノベルと呼ばれるレーベルは他にもあった。それでもわたしは迷わずそのレーベルへ投稿したし、その後も本命の投稿先はいつだってそこだった。

ミラージュを出していたレーベルだから。それは確かにそう。最初の一度はそれだけだった。けれど10年経ってから再び公募を始めたとき、それだけではわたしの心のすべてを言い表せていないことに気づいた。

初めて出したときよりも、ずっとずっと、最終選考に残りたいと思っている自分がいた。賞をもらえたら何より嬉しい。小説を書いていることに格好がつく。けれどそれよりもっと明確な心でわたしは最終選考に残りたかった。なぜなら、選考委員に先生の名前があったからだ。

先生に読んでほしかった。あなたからもらった小説の命はこんなふうになりましたと伝えたかった。あなたのおかげでわたしは「わたし」に出会うことができました、ここまで生きてこられました、ありがとうございます、と。

残念ながらわたしの最高記録は4次落ち。最終まで一歩届かなかった。選評を見れば評価は悪くなかったけれど、どうやら商業としては弱かったようで。……そりゃあまあ、そうだ。賞をとるために血の滲むような努力や工夫をしているほかの作品に勝てるわけがない。だってみんなだってきっと小説に救われたから小説を愛して、それを生み出そうとしている。恩返ししたいのはわたしだけじゃない。それでもどうにかそこまで残れたのは、読んでほしいという気持ちがどうにかこうにか筆に込められていたからかな。そうだといいな。

 

先生は前回だか前々回だかに選考委員を終えられた。それを知って、わたしは公募のことをほとんど考えなくなった。去年WEBのコンテストに出してすっかり疲れてしまって、これなら従来の公募のほうがずっと精神的に楽だなあと思ったけれど、具体的にどこにどんなものを出そうか、ということには考えが及ばなかった。

これからもお祭り的にWEBコンテストへ参加することはあっても、よほどのことがない限り精力的に公募活動をすることはもうないと思う。見ず知らずの人がひとり、真剣にわたしの作品を読んでくれるとても貴重な機会ではあるけれど、いまはそれよりも書きたい物を書いていたい。まとまりとか、枚数とか、締め切りとか、あぁ……あと結果とか、そういうものと無縁なものを書くことが、すくなくともいまは後悔のない物書き人生に繋がると感じている。

 

いのちの恩人の家へ辿り着けた鶴は幸運だったのだろうな。わたしは自分の力不足でそこへ到ることはできなかったけれど、もらった命の価値は変わらないし、その幸福はかけがえのないものだから、「みて、みて」とご機嫌にスケッチブックを掲げる子どものようにこれからも楽しく(そしておなじだけ苦しみながら)小説を書いていきたい。